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2019年5月7日火曜日

私とピアノ(5)

多数アーチストのサポートや録音に関わってきました。1ステージのみを除外し敬称略。ピアノだけの場合もありますが多くはバンドのピアノあるいはキーボード演奏、喜多郎ではベース(Mini Moog)も演奏。

チェリッシュ、上條恒彦、中村雅俊、まびい、坂本九、加山雄三、加川良、加藤登紀子、ふきのとう、葦原邦子、明日香都岸洋子、松平健、吉幾三喜多郎

2017年11月17日金曜日

岸洋子さんのヒット曲など楽譜と音の最新リリース情報

昨日リリースの楽譜と音の最新情報です。

ジーン・ケリー、トニー・ベネット、そして岸洋子さんの名唱をそれぞれ採譜アレンジしました。

詳しくは ココ に特集ページがあります(なお特集はリリース毎に更新されますので今後数ヶ月すると別の情報に入れ替わります)。

一昨日の投稿は昔の当社情報紙「Fill in」を利用していますが、No.4(1983年5月号)にステージ配置図がありました。
このツアーです。
この日程でした。
プログラムです。
その後も「岸さん」の伴奏をしていました。
最後のステージまで。素敵な歌声でした。















合掌

2012年6月4日月曜日

My musical history(12)


バンドにおけるピアニスト、それは当時一斉に世に出たフォーク系のアーチストのツアー・サポートから始まりました。
今でこそアーチストのツアー・サポートなんて言いますが当時はバック・バンドと言いました。
そして旅行く先々での呼ばれ方は従来通りバンド・マン、まだ世間的扱いは「士農工商犬猫バンド」という風でした。
身分的に人間以下、更に犬猫以下って意味です。やや自嘲気味にそう感じたし、実際そんな風に扱われる場面も時々ありました。
当時一斉に世に出たフォーク系アーチストが多数いて、仕事はいくらでもありました。バンドのメンバーは常時不足気味でメンバーが固定するのにしばらく時間がかかりました。ステージの数は年間百以上はありましたから徐々にメンバーを固定しないとマネジメントが困難になり、メンバーは固定してゆきました。

私はアシュラダムという名前のバンドに所属しましたが、当初はウエンズデー・モーニングというバンドのピアノやキーボードの仕事も時々入ってきました。現在も使われている業界用語だと思いますが「トラ」の仕事も多かったのです。
トラとはエキストラの略、確か映画業界の用語を音楽業界が転用したのだと思います。正規メンバーの代わりにその仕事を臨時に1本とか数本請けることで、正規メンバーは何か用事で現場に行けないとか、用事と称してもっと良い仕事(これをオイシイ仕事と言う)へ行く時にトラを頼みます。
アシュラダムは上條恒彦さん、ウエンズデー・モーニングはチェリッシュのバック・バンドでした。
アシュラダムのリーダー(当時はバンマスと言ったはず)は国立音楽大学のトランペットの人、管楽器が3本(トランペット、トロンボーン、アルト・サックス)、これに4リズム(ピアノ、ギター、ベース、ドラム)の7人編成でした。
ウエンズデー・モーニングはトラで行った関係で詳しくわかりませんが、最初はベースの人、次にドラムの人がバンマスとなり、管楽器はいなくてピアノとキーボードとギターとベースとドラムの5人編成だった(と記憶しています)。

アシュラダムは国立音楽大学の学生が主体でしたがピアノとベースとアルト・サックス(上條恒彦さんの旧友)は外部でした。当時も今も?音楽大学ピアノ科の学生がバンド・マンをやるとは思えないし、だいたいコードでピアノが弾ける学生は…いなかったでしょう。
私は初見力とコードによる即興的アレンジ&演奏ができたので採用されたのでした。

当時の写真はこれ1枚しか見つかりませんでした。
裏には1974年9月24日、出水市民会館近くと書いてあります。21歳の私の右はベースのK.S.さん左はトロンボーンのM.W.さんです。

これらバンドのピアノ・パート譜はフルバンドのそれに近いものでした。売れたアーチスト、当初は大手のレコード会社なりプロダクションの傘下に入ったのでプロのアレンジャーが書いた楽譜が来ていたのです。
その後色々なアーチストのツアー・サポートを行うことになりますが、徐々にコードだけの楽譜(便箋にコードだけ書いてある様なもの)とか、演奏すべき曲が録音されたカセット・テープを受け取りコードなど必要な要素は自分で採譜(耳コピ)する様なことが増えて行きました。とにかくコードでピアノが弾ければ仕事になったのです。ソロもバンドも。

目下、コード弾きピアノの初歩入門教則本の執筆依頼を受けて書いています。
左の画像は既に出ている本。これに私が書いた本が加わるのです。
コードで弾ける人、30年前は少なかったけれど現在では随分と増えているでしょうし、この様な出版企画が成立する時代になったのだなあと、感慨深いものがあります。


次回は私の教則本執筆奮闘記でも書きましょう。こちらも30年前から始まった仕事です。