今、NHK FM の特集番組を聴いている。
彼に最初にあったのは上條恒彦さんのツアーとアルバムのためにパーカッション(主としてティンパニ)奏者としてバンドに参加したときだった。
そのアルバムについては ココ にあります。
以前より吹奏楽アレンジで活躍していることは知っていましたが、素晴らしい。
2013年8月25日日曜日
My Musical History(26)
まず以前の投稿で紹介したレコード。
上條恒彦さんのライブ盤「STAGE・橋はいつも」です。
演奏者として私の名前がクレジットされた音楽出版物はこれが最初でした。
昨晩、久々に聴きました。通常のツアーバンドは管楽器3(トランペット、トロンボーン、アルトサックス or フルート)に4リズムでしたが、この日はストリングス・セクション、オルガン、女性コーラス、ホルン、オーボエなども加わった大編成のオケでした。
それでも時々、自分のピアノの音が聞こえます。どの曲も懐かしい。
前回「My Musical History(25)」では磁気テープの話を書きました。
何本か残っていたテープの中から、自分のピアノ演奏録音を聴きました。
テスト録音でしたのでこれが音楽出版物になることはありませんでしたが、東京から教えに通っていたヤマハ新潟センターのキューシートに内容が記載されていました。ヤマハ新潟センターのピアノで録音した様です。
いずれも友人がデジタル音源化してくれたので聴くことができました。本当にありがたいことです。
上條恒彦さんのライブ盤「STAGE・橋はいつも」です。
演奏者として私の名前がクレジットされた音楽出版物はこれが最初でした。
昨晩、久々に聴きました。通常のツアーバンドは管楽器3(トランペット、トロンボーン、アルトサックス or フルート)に4リズムでしたが、この日はストリングス・セクション、オルガン、女性コーラス、ホルン、オーボエなども加わった大編成のオケでした。
それでも時々、自分のピアノの音が聞こえます。どの曲も懐かしい。
前回「My Musical History(25)」では磁気テープの話を書きました。
何本か残っていたテープの中から、自分のピアノ演奏録音を聴きました。
テスト録音でしたのでこれが音楽出版物になることはありませんでしたが、東京から教えに通っていたヤマハ新潟センターのキューシートに内容が記載されていました。ヤマハ新潟センターのピアノで録音した様です。
いずれも友人がデジタル音源化してくれたので聴くことができました。本当にありがたいことです。
2012年6月7日木曜日
My musical history(14)
アシュラダムに在籍した頃のお話です。
上條恒彦さんのステージの仕事が多かったバンドです。
バンドで請け負った仕事に中村雅俊さんのデビュー・ツアーがありました。「ふれあい」が大ヒットしたからで、彼の故郷の女川へも行きました。ステージは女川ではなくて石巻だったと記憶していますが。
上條さんは「出発の歌(だびだちのうた)」そして「だれかが風の中で(フジテレビの時代劇「木枯らし紋次郎」主題歌)」のヒットでステージの仕事がたくさんありました。全国各地へ行きました。
このように旅へ行く仕事を業界用語ではビータと言いますが、九州の労音では色々なところへ行きました。
博多や熊本の様に大きな都市だけではなく大牟田、山鹿、玉名、菊池、天草、八代、出水…。先日の写真はその出水です。
プロの音楽家と言ってもビータとスタジオは世界が違います。スタジオの人はあまり地方へ行きません。
スタジオの仕事は急に入ってきて内容もわからずに何日何時にどこそこの録音スタジオへ行く感じ、だから地方へ行っていては仕事になりません。行っても直ぐに帰れる東京近辺とか主要都市程度です。
ビータの仕事は東京のステージもありますが、主に東京以外へ出かけてしばらく帰ってきません。
最初の内、全国あちこちへ行けるのが楽しくて航空会社の機内でもらえる地図に行った場所と日付を記録していました。
上條恒彦さんのステージの仕事が多かったバンドです。
バンドで請け負った仕事に中村雅俊さんのデビュー・ツアーがありました。「ふれあい」が大ヒットしたからで、彼の故郷の女川へも行きました。ステージは女川ではなくて石巻だったと記憶していますが。
上條さんは「出発の歌(だびだちのうた)」そして「だれかが風の中で(フジテレビの時代劇「木枯らし紋次郎」主題歌)」のヒットでステージの仕事がたくさんありました。全国各地へ行きました。
このように旅へ行く仕事を業界用語ではビータと言いますが、九州の労音では色々なところへ行きました。
博多や熊本の様に大きな都市だけではなく大牟田、山鹿、玉名、菊池、天草、八代、出水…。先日の写真はその出水です。
プロの音楽家と言ってもビータとスタジオは世界が違います。スタジオの人はあまり地方へ行きません。
スタジオの仕事は急に入ってきて内容もわからずに何日何時にどこそこの録音スタジオへ行く感じ、だから地方へ行っていては仕事になりません。行っても直ぐに帰れる東京近辺とか主要都市程度です。
ビータの仕事は東京のステージもありますが、主に東京以外へ出かけてしばらく帰ってきません。
最初の内、全国あちこちへ行けるのが楽しくて航空会社の機内でもらえる地図に行った場所と日付を記録していました。
上條さんは、ご自分のアルバムにアシュラダムを使ってくれました。ステージのライブだから当然とも思えますが、ライブの録音でも当時はスタジオの人が呼ばれることが多く、ビータのバンドは一般的に冷遇されていました。
そのライブ・アルバム、上條さんのサインがあります。
上條さんは歌手としてデビューしましたが、どちらかというと演劇をやりたかった様です。
ステージでも歌を絡めた寸劇のようなものがありました。だから劇伴(げきばん:演劇や映画の伴奏音楽)も経験しました。
倍賞千恵子さんがご一緒されたシリーズは思い出深いです。例えば芝居の中で水道の蛇口をひねると水が少し落ちる、などのセリフに対してピアノでその情景を表現するとか…。東京のステージには、当然の様に渥美清さんが応援に来られました。
このステージで九州にも行ったと記憶しています。アシュラダムが毎日粗末な衣装なので、倍賞千恵子さんが1人ずつ綺麗なTシャツを買ってくれたことがありました。何とか着られましたが、女物ではないかと思いました。当時はみな細かったから女物でも着られたのですが…。ややつんつるてんでした。
ステージにおける演奏は本当に勉強になり、後の私の音楽活動の本格的なスタートということができます。
アシュラダムのメンバーは今頃どうしているかなって思います。何しろ毎日一緒。そんなビータでした。
2012年6月4日月曜日
My musical history(12)
バンドにおけるピアニスト、それは当時一斉に世に出たフォーク系のアーチストのツアー・サポートから始まりました。
今でこそアーチストのツアー・サポートなんて言いますが当時はバック・バンドと言いました。
そして旅行く先々での呼ばれ方は従来通りバンド・マン、まだ世間的扱いは「士農工商犬猫バンド」という風でした。
身分的に人間以下、更に犬猫以下って意味です。やや自嘲気味にそう感じたし、実際そんな風に扱われる場面も時々ありました。
当時一斉に世に出たフォーク系アーチストが多数いて、仕事はいくらでもありました。バンドのメンバーは常時不足気味でメンバーが固定するのにしばらく時間がかかりました。ステージの数は年間百以上はありましたから徐々にメンバーを固定しないとマネジメントが困難になり、メンバーは固定してゆきました。
私はアシュラダムという名前のバンドに所属しましたが、当初はウエンズデー・モーニングというバンドのピアノやキーボードの仕事も時々入ってきました。現在も使われている業界用語だと思いますが「トラ」の仕事も多かったのです。
トラとはエキストラの略、確か映画業界の用語を音楽業界が転用したのだと思います。正規メンバーの代わりにその仕事を臨時に1本とか数本請けることで、正規メンバーは何か用事で現場に行けないとか、用事と称してもっと良い仕事(これをオイシイ仕事と言う)へ行く時にトラを頼みます。
アシュラダムは上條恒彦さん、ウエンズデー・モーニングはチェリッシュのバック・バンドでした。
アシュラダムのリーダー(当時はバンマスと言ったはず)は国立音楽大学のトランペットの人、管楽器が3本(トランペット、トロンボーン、アルト・サックス)、これに4リズム(ピアノ、ギター、ベース、ドラム)の7人編成でした。
ウエンズデー・モーニングはトラで行った関係で詳しくわかりませんが、最初はベースの人、次にドラムの人がバンマスとなり、管楽器はいなくてピアノとキーボードとギターとベースとドラムの5人編成だった(と記憶しています)。
アシュラダムは国立音楽大学の学生が主体でしたがピアノとベースとアルト・サックス(上條恒彦さんの旧友)は外部でした。当時も今も?音楽大学ピアノ科の学生がバンド・マンをやるとは思えないし、だいたいコードでピアノが弾ける学生は…いなかったでしょう。
私は初見力とコードによる即興的アレンジ&演奏ができたので採用されたのでした。
当時の写真はこれ1枚しか見つかりませんでした。
裏には1974年9月24日、出水市民会館近くと書いてあります。21歳の私の右はベースのK.S.さん左はトロンボーンのM.W.さんです。
これらバンドのピアノ・パート譜はフルバンドのそれに近いものでした。売れたアーチスト、当初は大手のレコード会社なりプロダクションの傘下に入ったのでプロのアレンジャーが書いた楽譜が来ていたのです。
その後色々なアーチストのツアー・サポートを行うことになりますが、徐々にコードだけの楽譜(便箋にコードだけ書いてある様なもの)とか、演奏すべき曲が録音されたカセット・テープを受け取りコードなど必要な要素は自分で採譜(耳コピ)する様なことが増えて行きました。とにかくコードでピアノが弾ければ仕事になったのです。ソロもバンドも。
目下、コード弾きピアノの初歩入門教則本の執筆依頼を受けて書いています。
左の画像は既に出ている本。これに私が書いた本が加わるのです。
コードで弾ける人、30年前は少なかったけれど現在では随分と増えているでしょうし、この様な出版企画が成立する時代になったのだなあと、感慨深いものがあります。
次回は私の教則本執筆奮闘記でも書きましょう。こちらも30年前から始まった仕事です。
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