九州大学卒業が1945年8月、水産庁の研究技官として広島赴任中に私が生まれました。
仕事は水産資源の研究、広島市宇品町にあった内海区水産研究所でも研究を続け農学博士となります。
後に広島大学で生態学も教えました。
エリザベト音楽大学を卒業した研究所の所長さんの娘さんにピアノを習いに行くことになりました。
父は自分のバイオリンの伴奏をさせたかった様ですが、伴奏をした記憶は少しだけ、一緒に音楽を楽しむという時間はあまりありませんでした。
父の仕事が忙しかったからと思います。せいぜい音楽鑑賞どまり、自分で楽器演奏を楽しむ時間は無かった様です。
ピアノの先生は元子先生と言います。優しい人でした。ソルフェージュも教えてくれました。
ソルフェージュは自分の知らないメロディを楽譜から読み取り歌う練習です。
ポピュラー楽曲等を読み取る教本もある様ですが、これは殆ど意味が無い様に思います。
知っている曲を歌う場合、メロディ譜から読み取る前にそのメロディは記憶されているはずだからです。
メロディを記憶しているからカラオケへ行って楽譜を見て歌う人は居ない訳です。
ソルフェージュの練習は知らないメロディを正しく読み取り歌う練習です。
そうでないと音感の鍛錬にはなりません。そして読み取れる様になれば自分の中に生まれたイメージを書くことができる。
これができて本来は作曲をしたと認めてもらえます。
もちろんそのイメージを楽器で演奏したり歌った状態も作曲ではありますがこれを自分で書ける様にしたいものです。
元子先生が結婚され広島の西部、高須町へ移転されました。
広島市内は市街電車(広島電鉄)が発達しています。
宇品から広島中心地紙屋町を経由して己斐、そこで宮島へ行く郊外電車に乗り換えます。
日曜日のピアノ・レッスン、電車に乗る楽しさが加わったことで小学六年生まで続きました。
中学入学後、徒歩通学が大変だったこと(下記ブログ投稿参照)、学業やクラブ活動が忙しくなり元子先生のピアノ・レッスンは止めました。
http://heartsmusicblog.blogspot.jp/2011/08/blog-post_26.html
画像は習い始め頃(足踏みオルガン)、他二枚は中学校入学前後のものです。中学は特に理由が無いと長髪禁止でした。その前後に撮影しています。
ピアノは日本楽器製造とアルファベットの装飾字体で書かれた中古のアップライトでした。
鍵盤は象牙ですが、88鍵ありませんでした。
最初は燭台もついていた様ですが、その跡だけが残っていました。
特にピアノ演奏が大好き少年ではありませんでしたが、電車のおかげもあってレッスンを継続した結果、一通りの読譜はできる様になっていました。
はァ~、お父さまの影響で音楽を始められたのですか。
返信削除最初の先生がすてきな方だったのですね…
すてきというか、優しい人でした。
返信削除ピアノが好きということではなかったけど、嫌いにならなかった。
ピアノを教える仕事について、多くの生徒に接した結果としてわかったのですが、ピアノの先生の中にはストイックというか、厳しい人が多いらしいのです。
音楽は楽しいものです。
ピアノを習いに行くのは、ピアノという楽器を通して音楽を楽しむことのはずですが、ピアノの修練の様になってはね。
私は幸運だったのだと思います。