2011年11月24日木曜日

根津の思い出(談志師匠の訃報に接して)

今日も起点はネット・ニュース「ライバルいなくなった談志さん いつもどこか寂しそうだった(スポニチアネックス(2011年11月24日 06:41)」です。
この記事の冒頭、「花井よぉ、100円玉2枚持ってる?」と言ってニッコリ、少年のように手を出す談志さんがいた。僕が誘って入った上野・池之端の寿司店。目の前は都バスのバス停。「こっから乗ると、俺ん家(ち)のマンションの前に止まるんだ」…というところまで引用。この俺ん家はプレジデントハイツ根津309、談志師匠が入居する前は僕の俺ん家だった。

私のブログにも書いた、バブル経済による家賃高騰、経済的に困り前橋市近郊の一軒家にバブル疎開して出た後に談志師匠が入居した。

このプレジデントハイツ根津309、防音室があるというので入居した。一応、新築の賃貸マンション、防音室というのは一室の壁を厚くし、二重窓と重い防音扉で改造されていた。六畳程度の部屋が四畳半程度に狭くなっていたが、ピアノが置ける、好きに弾けると思って契約をした。

下見の際に照明はついたので想像もしていなかったが、防音室内の電源(よくある二口)には電気が来ていなかった。完全な手抜き工事だが、もう壁を壊す訳にもゆかず、天井の照明から分岐して電源を取るしかなかった。下見の際に、各部屋の電源が正常か確認する人は居ないよね。いやこれには参った。

談志師匠がなぜ根津に来たのか、それは防音室があったからではない様だ。
プレジデントハイツ根津の直ぐ裏は五月祭りや時代劇のロケで有名な根津権現(根津神社)、これを抜けて行くと日本医科大学付属病院がある。治療目的の転居と聞いた。

この根津で暮らした時期、私は岸洋子さんの仕事、喜多郎さんの仕事、教室の方は自分の家で教えていたし、楽譜出版の仕事、通信カラオケの原型となるシステム(メーカーの方が実際に見学に来た)をヤマハQX-1で教室向け教材で開発していた。パソコンはNECの98シリーズ、パソコンに慣れようとしていたが音楽制作には使っていなかった。音楽制作に使い始めたのはマック・プラス。アプリケーションとしてはMOTU社のデジタル・パフォーマとモザイクの前身(プロフェッショナル・コンポーザ)だった。

このビルの一階には商店が入っていて、落語の世界の様な感じ、下町の生活感が漂っていた。特に根津の鯛焼きということで有名になった柳家さん。姓が同じく林というので、親戚とか言って冗談を言っていた。大将も女将さんも亡くなったが、今は息子さんが継いで暖簾を守っている。
酒屋のサワノ本店も思い出深い。冬になると樽で賀茂鶴を売っている。とっくりに分けて量り売り、広島の銘酒、懐かしくてよく買った。

この部屋を出るとき、防音室に穴八幡宮(早稲田)の一陽来復の札を貼って来たのだが、談志師匠はどうしただろうなって、そんなことを思い出した。

画像は定点撮影中の桜だが、一本南の桜(左)は常緑樹の前にあるので紅葉がはっきりわかりますね。

0 件のコメント:

コメントを投稿