2012年6月4日月曜日

My musical history(12)


バンドにおけるピアニスト、それは当時一斉に世に出たフォーク系のアーチストのツアー・サポートから始まりました。
今でこそアーチストのツアー・サポートなんて言いますが当時はバック・バンドと言いました。
そして旅行く先々での呼ばれ方は従来通りバンド・マン、まだ世間的扱いは「士農工商犬猫バンド」という風でした。
身分的に人間以下、更に犬猫以下って意味です。やや自嘲気味にそう感じたし、実際そんな風に扱われる場面も時々ありました。
当時一斉に世に出たフォーク系アーチストが多数いて、仕事はいくらでもありました。バンドのメンバーは常時不足気味でメンバーが固定するのにしばらく時間がかかりました。ステージの数は年間百以上はありましたから徐々にメンバーを固定しないとマネジメントが困難になり、メンバーは固定してゆきました。

私はアシュラダムという名前のバンドに所属しましたが、当初はウエンズデー・モーニングというバンドのピアノやキーボードの仕事も時々入ってきました。現在も使われている業界用語だと思いますが「トラ」の仕事も多かったのです。
トラとはエキストラの略、確か映画業界の用語を音楽業界が転用したのだと思います。正規メンバーの代わりにその仕事を臨時に1本とか数本請けることで、正規メンバーは何か用事で現場に行けないとか、用事と称してもっと良い仕事(これをオイシイ仕事と言う)へ行く時にトラを頼みます。
アシュラダムは上條恒彦さん、ウエンズデー・モーニングはチェリッシュのバック・バンドでした。
アシュラダムのリーダー(当時はバンマスと言ったはず)は国立音楽大学のトランペットの人、管楽器が3本(トランペット、トロンボーン、アルト・サックス)、これに4リズム(ピアノ、ギター、ベース、ドラム)の7人編成でした。
ウエンズデー・モーニングはトラで行った関係で詳しくわかりませんが、最初はベースの人、次にドラムの人がバンマスとなり、管楽器はいなくてピアノとキーボードとギターとベースとドラムの5人編成だった(と記憶しています)。

アシュラダムは国立音楽大学の学生が主体でしたがピアノとベースとアルト・サックス(上條恒彦さんの旧友)は外部でした。当時も今も?音楽大学ピアノ科の学生がバンド・マンをやるとは思えないし、だいたいコードでピアノが弾ける学生は…いなかったでしょう。
私は初見力とコードによる即興的アレンジ&演奏ができたので採用されたのでした。

当時の写真はこれ1枚しか見つかりませんでした。
裏には1974年9月24日、出水市民会館近くと書いてあります。21歳の私の右はベースのK.S.さん左はトロンボーンのM.W.さんです。

これらバンドのピアノ・パート譜はフルバンドのそれに近いものでした。売れたアーチスト、当初は大手のレコード会社なりプロダクションの傘下に入ったのでプロのアレンジャーが書いた楽譜が来ていたのです。
その後色々なアーチストのツアー・サポートを行うことになりますが、徐々にコードだけの楽譜(便箋にコードだけ書いてある様なもの)とか、演奏すべき曲が録音されたカセット・テープを受け取りコードなど必要な要素は自分で採譜(耳コピ)する様なことが増えて行きました。とにかくコードでピアノが弾ければ仕事になったのです。ソロもバンドも。

目下、コード弾きピアノの初歩入門教則本の執筆依頼を受けて書いています。
左の画像は既に出ている本。これに私が書いた本が加わるのです。
コードで弾ける人、30年前は少なかったけれど現在では随分と増えているでしょうし、この様な出版企画が成立する時代になったのだなあと、感慨深いものがあります。


次回は私の教則本執筆奮闘記でも書きましょう。こちらも30年前から始まった仕事です。



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